月籠り=つごもり
毎月のつごもりでも、今日は一年悼尾の大つごもりです。月がお籠りするように私たち人間も静かにこの日を送って、明日からの再生を期するわけですね。 今年もありがとうございました。天に感謝、神仏に感謝。そしてさまざまな人に感謝です。 一昨年末のガルーダさんの到来は大きくて新しい展開を私にもたらしてくれました。その事が今日になって今更のごとく実感しています。 それに続く釈迦像の入来。これは苦しみかけていた私に、厳しいけれど新たな指針を与えてくれました。何度それに励まされたことかーそして、その展開がきっと明年にやってくるでしょう。いや、私自身で引き寄せることが必要だと知らされました。 それは自分には最も不慣れな孤独との闘いになるでしょう。 ところで先日、ある友人と語り合った際、彼が「自分のような実業家にはバランス感覚が必要とされるけど、村さんの仕事はどこかで尖がってなきゃいけないはずです。でもみんな尖がれなくなって体制に組み込まれちゃうんですよね。その点、普通の舞踊家とは違った尖がり方している村さんは…」と言われました。 が、私はすぐに言葉を返したんです。「私もバランス感覚目指してますよ。ただね、1か所だけ尖がってるのなんてもう古いし、私には物足りない。全部尖がっちゃえば結局バランスとれちゃうって思ってます!」と言って大笑いしました。 本当にホントにほんとうに時代錯誤な考え方は、芸能や演劇、芸術に携わる人間が感性だけ秀でていればいいという思い込みです。 感性なんて言っているうちは碌なものはできません。知性も周囲への気配り、判断も、時には自己経営もすべてフル動員が要る仕事です。 一見優れたアートのように見えるものとて、一回限りや短命のものなら別段かまいませんが、本来は人格とのせめぎ合い、伸長によってなされねばなりません。 日舞でも以前たいへん巧いと定評の演者がいましたが、私はその舞踊がある時期からとても嫌いになりました。それは心のすさびが舞台に表れるようになったからで、彼女は人格とは無縁の女の業、舞踊家のエゴイズムだけが私には見えて厭だったのです。 もちろんそれでも技術があったので、そういう踊りが踊れることに対して大方の人が感心しておりました。が、芸能はエゴの発露の場では断じてありません。また技術を盲信するものでもないはずです。その醜いまでの女の性に私は日舞家や表現者が陥りやすい穴を見た思いがしていました。 いったい私たち芸能や演劇、アートに携わる人間はこの時代に何をなせばいいのでしょうか!?お米一つぶ育てられず、魚一ぴきさえとらず土さえ耕せない私たちはこの地球に対し宇宙に対し、またいま生命を受けた自分に対し、何をなせばいいのか… ひとえに美に殉じる者は、自身の中にある真性や善性にも目を向けなければなりません。我欲の虜になって、自分のことばかりを主張していてはミューズも弁財天も微笑んではくれません(苦笑) ましてやある年齢までいった人は尚更です。まだ私の年齢に近い人々でも自分自分でガタガタしているのはなんともはや…周囲に目配りすらできず、自分を言われただけで喜んでしまうのを見ていると悲しくさえなります。 単純にいえば、自分だけではなく広くまわりを見渡せば新たな自分も見えてくるのです。 私はまだまだ若輩のつもりでいましたが、今年後半はもうそうではないことを思い知らされることが沢山ありました。 いつも若い人たちと一緒にいるつもりが相手からはそうではなくなって、自然とはずされているシーンが公私にわたって数え切れないほどありました。特に悔しかったのは自分が元のお膳立てをした張本人であるにも関わらず、なんとはなしにはずされた事が何度もありました。 始めは煙たがられたのか、無視されたかと気分を害したこともしばしばでしたが、どうも原因は違うことがわかってきました。 それが釈迦像が教えてくれた「天上天下唯我独尊」のメッセージのほんの一部分でもあったのです。 この淋しさはまだ慣れていないのですが、徐々に克服していきます。 淋しさは心にいい!「別れを楽しめるようになるといい」「心に紅をさして生きればいい」以前、仏様から戴いたメッセージをいま胸に改めて納めて新年を迎えることにします。 来年はいい年です!みなさん幸せです!!
by nihon_buyou
| 2009-12-31 14:36
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