昨日書いた「関の小万」に関する手紙は11枚に及んでしまった。ちょっと残しておきたくなってコピーした。
韓国国立劇団の「胎ーてー」を見る。 王位簒奪の物語に肉親の愛情、忠義心がからむ。舞台に笠が十数枚吊り下げられるが、これが罪人や死・魂の象徴になるのが日本の俗信と通じる。 反写実な演技は、人と人が向かい合わず、わざと正面を向いてセリフを言う。これも能狂言では基本の会話様式だが、日本ではその始めと終わりにわざわざ相手側に体の向きを振るが、今回の芝居ではそれをしないので、どうしても言葉が上滑りする。常に観客に向って発せられている割りには、セリフとして届かない。いわば言葉と言葉、あるいは人と人との劇=葛藤・対立にならないのだ。 省略や場所・時間がパラレルに展開する手法を、演出家はしきりと強調し、わかりずらいかもしれないと注意を喚起するが、別段新しい手法でもないし、私ですら「累草紙」以来、20年前から試みている手法だ。 最終場面で、王が倒していった、もと王の家臣が残した赤ん坊を抱くシーンも、政治と愛の相克という大テーマになるはずが、政治の酷薄さを描くにも人間愛の傷みを描くにも役者に苦衷が見えず、また台本の詩的高揚感がないせいか、安手の人情噺に堕してしまった。伴奏の韓国楽器も勢いがなく、あのハラワタを抉るような情動がないので、気の抜けたサイダーを飲んだあとのように、甘さだけが舌に残った。
by nihon_buyou
| 2009-07-12 11:01
| 伝統芸能・日本舞踊・能狂言
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