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いい人

 よく「あの人はいい人」という評価、言い方がある。この言い方が気になりだしてからなんとなく注意していたが、ある意味ではほとんどの人は、まずこの「いい人」の範疇におさまってしまうということだ。僅かにはずれるのは、犯罪を犯した人。これには表立ってこの評価を使いずらくなる。それと自分の利益にそぐわない人には使わない。

 つい最近も、事情通にはあまり評判芳しからざる人物に関して、私や身内はその柔らかい物腰、物言いや具体的被害を受けていないことなどから、「でも、いい人だ」と評価していた。
 が、今回はさすがに世間で言う意味を実感した。さりとて実害があったわけではない。個々の出来事からその人物がなぜ世間にそう言われるかが透けて見えただけである。
 
 人は残念ながら一人ではまず生きられない。存在していることで既に好むと好まざるに関わらず社会化してしまう。どれだけ自分勝手に生きようと決意しても、割合こそ違え対社会との適合のバランスを測るものだ。
 その意味で、犯罪と名のつくことを仕出かした人でも、どんな手前勝手な人でも、ある窓口では「い人」の顔を必ず見せなければ生きられない。だから、たまたまそこに居合わせた人にとっては、相手をいきなり「悪い人」とは思わないし、またそう判を捺すにはなかなか勇気がいるものだ。そこで多くの場合はひとまず「いい人」という抽斗に分類しておくことがある。

 間違ってならないのは、この「いい人」抽斗は許容量が大きく、実は決済されていないものが入っていたり、自分にとって利・害のどちらがあったかだけの物差しで振り分けられたもので、ここに客観的データは入りずらいことである。いわば「どう判断しようが自分にとって構わない人」「どうでもいい人」までを含むのだ。

 本来、「いい人」とは、「善き人」であった。それは中国の哲人らが評価したステージの一つでもあった。が、日本語の口語体が「善き人」を「いい人」と口当たりよい言葉にほどいた時に、評価に責任を伴わなくてすむ、安易気軽な「いい」に様変わりさせてしまったのだ。言葉をほどいたことで引き寄せ孕んだ異なる意味や価値観。
 
 私たちが気楽に使える「いい人」はその意味では万能である。出会った時の天候・時候の挨拶に対し、別れたあとの人物評には、もっとも無難な宝刀だ。
 この曖昧さを日本語は発見して、いま広く「いい人」は大手を振って闊歩している。が、そこに潜む語感に私たちはもう少し鋭敏になりたい。
 
 いい人と言われるほどの莫迦でなしーーー
 
 これは自戒を籠めた覚悟でもある。
by nihon_buyou | 2009-06-27 10:49 | その他
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