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5.31

 まあまあ体重が落ちているというか、体が徐々に締まって来ております。6月からは少しアクセルふかします。

 それは仕事の上でも同じことです。たまりに溜まった企画やら原稿、演出プランを絞りにかける時機に入ります。
 うつむいて目が暗くうち沈んでいても気にしないで下さいね。「考え中」のプレートが出てるくらいに見ていて下さい。

 なんのジャンルでも、仕事の雰囲気が露骨に見える人がいますね。古典舞踊の人と新舞踊の人にも雰囲気の違いがありますね。
 日舞の年配女性で強欲な顔つきしてバサバサと歩く人にはあまり近づかないようにしていますが、けっこういるもんですね。
 それから演出家を気どり出すとうっそりとして、だいたい背中が丸まり首が前に出て上目遣いに人を見て挨拶が横柄になりがちです。

 確かに仕事柄、仕方のないことでもあるし、わかる部分がたくさんあります。でもふと我が身を振り返って、なぜか「要慎、要慎」と声をかける自分がいます。
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by nihon_buyou | 2010-05-31 04:26

5.30

 愚痴や不満…つい身近な人には吐き出したくなってしまいます。
 昨日もそんな時間がありました。あまりに取るに足らないことを言い張ったり、ここ一番という時に水をかけるような言動をされることにここ一週間ほどいらつく毎日でした。

 が、こんな時には必ず救いがあるものです。ある人の口を借りて私自身に対する注意を戴きました。
 考えてみれば、愚痴や不平を垂れ流すことを一番批判していた私自身がそれを行っていました。はじめは自分に対する戒めだったはずが、いつに間にやらすり替わって私自身が感染。さらにはウイルスを撒いていたように思えます。
 親しさのあまりの甘え…自分の立場や目的にそぐわない言動はいけませんね。甘やかせば知らない間に心が肥満する…

 今朝、サウナへ行ったら私が昔作った曲と出だしがそっくりな音楽が流れていました。
この似た曲があるのは前から知ってはいたのですが、今日はふと自分の曲のほうを変えてみようと思い立ち、Aメロを新しくしてしまいました。

 サウナ室の中で季刊誌に書く内容を考えていたら、先日とても心に残った「花の街」の歌詞とメロディーの微妙なバランスから来ていたことが納得できました。
 あの曲の持っている、明るさの中の哀調ーーー「輪になって輪になって駈けていったよ」と旋律は期待感を持たせて上昇しますが、その結果としてやってくる「春よ春よと」は、この曲で初めて使う最高音から漸層的に降下してくるのです。
 歌い上げて終わってはいないーーー駈けて行った先に春はいたのか……上昇のメロディーの後にやってくる階段状の下降ライン。絵画で言えば遠景に去って行ったとも想像できます。が、この曲の背景からいってどうもそうではなさそうです。

 これについてはまた書きます。
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by nihon_buyou | 2010-05-30 09:57

5.29

 若い人々の行動や言葉に厭な思いをさせられることが多くなりました。
 
 自分のことしか考えないーーー自分の能力があるとしても、それは人のためには用いず自分のためだけに使う。その割には年上の人間に対してやってもらいたい事はやってもらおうとするし、それが得られないと批判する。
 
 こんな風景をしばしば目にし耳にし、心痛めるシーンが多くなっている昨今です。それに傷つかないためには、気がつかない振りや、老いた風情を演じるというのも手かもしれませんね。まだ早すぎるか(笑)


 先日小さな講演会があって1時間ほど話をさせてもらい、ちょっと反省しました。
今まではどんな長い講演でもメモなどを見たりするのはあまり潔くないと勝手に考えていたのですが、これからは敢えて資料や進行表を手にしながら話すことに切り替えようと思い直しました。

 それは心の流れや話のテーマの為ではなく、あくまでも私にとっての材料の確認のためです。メモを使わずにいると、どうしても使いなれた材料だけで料理をしてしまいがちになるからです。手慣れた定番は、話し手にとっても聞き手にとっても安心のあるものですが、スリリングでなくなります。心に花がない。


 たくさんたくさん企画の話ーーーひとりではやり切れないでしょう。動き方や環境、周囲を整理しようと真剣に考えています。まずは無駄な悩み、労力のかかるものは元から断つ。このあたりから始めないといけないかも…(笑)
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by nihon_buyou | 2010-05-29 06:13

5.28

 6月空間公演、そしていくつかの舞台依頼などが重なり、気持ちの上で熱い日々を過ごしています。

 昨日は舞創でワークショップがありましたが、2時間の内、ほとんどを話で費やしてしまいました。

 それは8月下旬に若手らが中心になってやる近松の「碁盤太平記」に絡んで「忠臣蔵」「曽我」の話。それを理解してもらう前提としての色の話、季節のこと、鬼のことetc.
 たぶん受講した人には随分迷惑な時間になってしまったかもしれません。が、いま、この時代になぜ「忠臣蔵」を、しかも若い人々がやるかということに思いを馳せれば、演出を担当する私としては避けては通れないところでした。

 それは来月の「カナリヤ」でも同様で、踊りが好きだから踊るというのは原点ではありますが、なぜいま「カナリヤ」がテーマとして題材として選ばれたか、その偶然とも思える成り行きを<必然>という「ものがたり」に仕立て直す作業と思いが内外ともに要るのだという切実な事情があるからののですね。

 踊りを踊るのに覚悟が必要だと最近思うようになりました。以前は覚悟なんて考えてもいませんでしたし、まあ一所懸命にやることくらいがせいぜいでしたし、ある意味でどなたとも同様、踊りたいと思った時に踊っていたわけですね。

 が、ふと今の自分を振りかえった時、私が踊るという時間はなんなのかを考えるようになったのですね。
 またこの事についてはゆっくり考え、書く必要があるでしょう。
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by nihon_buyou | 2010-05-28 11:43

5.27

 稽古場へ行き、松岡正剛さんが偶然にも「カナリヤ」について触れている熱い文章と、蜷川幸雄さんのインタビュウーを空間の人々に読んでもらいたいと各人にコピーしました。
 まあ、でもこれも私の一人よがりかもしれません。それぞれに年齢や生き方がありますものね。

 年をとるってステキなことなのに、体に脂肪がつくように心にも贅肉がつくものです。人のことはどうでもいいこと。他人事ーーー自戒自戒!!!

 今日は赤羽稽古と夜は舞創でのワークショップ。
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by nihon_buyou | 2010-05-27 08:35

5.25

 肥満した心と体は、井戸端会議のおばさんやセクハラ上司と同じ無駄口を叩いて周囲に厭な感情を振りまいても一向に気づかない鈍感さを導きますね。
 やはり神経のどかかが鈍磨してしまう?そんな怖れが私にいまダイエットに向かわせています。一週間でスローでおよそ2キロ。公演までには徐々に加速度を増して自分をおおいに苛めてみます。
 誰ももう何も言ってくれなくなってますものね。ライバルは自分自身!

 この処、空間も徐々に眠りから醒めかけてきています。皆それぞれ課題は違いますし、程度も異なります。
 一番難しいのは、課題を課題としてはっきり自覚にまで高めることです。悪い点を直すという次元ではありません。自分が何をしたいのか、すべきかという問いを正面に据えることなのですね。

 要するに今までやれなかったこと、やってなかったことが課題に他なりません。
別にやりたくなかったらやらなくてもいいことでもあるので、気付かぬ振りしたり、怒ったり、不平や愚痴に誤魔化してしまうこともできますね。

 これも全て自由です。

 自分で課題を見つけた経験のなさそうな人には、誰かかが教えてあげます。はじめての人にはそれが自分への批判だと受け取れて困惑したり、激怒する人までいます。中にはいじけたり、暗く落ち込んでしまう人もいます。まずはこの第一歩の反応がその後の方向を決めてしまう傾向もありますね。

 私はとにかく稀代の方向音痴です。先日も人形町から小伝馬町の交差点までの一本道を行きは真っ直ぐ歩いて来ましたが、ある建物に入り、そこを出た瞬間からもう帰る方向がわかりません。たぶんあっちだろうとは思いましたが、それでいつも大間違いをするのが常なので、すぐに地下鉄に潜り、一駅だけ乗って人形町に戻りました。

 このくだらなさと、各人が持ち合わせている心の方向指示器は、ある刺激に対しては必ず間違った指示を出すことというクセと似ていはしないでしょうか?
 これはたぶん治らない。だからその時点が来たら誰かに道を聞くか、電車に乗って目的地まで連れてってもらえばいい。多くはそこで自分で解決してやろう!と野心を起こすのが間違いのもと。言い訳、愚痴、さかしら、おしゃべり、野心…(笑)(笑)(笑)
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by nihon_buyou | 2010-05-25 07:30

5.23

隣の席で咳をしていられると無性に気になります。子供の頃から風邪にうつりやすかったからでしょう。すぐに気管支のあたりが痛くなって能どころではなくなってしまいました。

そんな時の自衛策は咳している時に息を強く吐くことなんですが、相手が咳をするちょっと前にはわかってしまうので、その時点から息を長く吐きます。こうなると御想像の通り、能どころではなくなってしまいますから、不能というか不幸としか言いようがありません。

終わってすぐにトイレでうがいをし、不機嫌なままロビーにでると「村さん、ありがとうございました」と後ろから声をかけられました。井上八千代さんでした。途端に不機嫌が吹っ飛んでしまったのですから、京舞の威力は私にとっては風邪より強いことを確信しました。
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by nihon_buyou | 2010-05-22 22:28

勅使川原三郎の「オブセッション」 5.22

 勅使川原三郎の「オブセッション」相方の佐東と男女のせめぎ合い、葛藤が描かれる。
 
 題材やテーマがある意味で日常的なぶん、いつものスピーディーで激しい動きが、ピュアな肉体運動に還元、昇華されず意味を背負ってしまう。
 病者のカルテを見るような勅使川原の異態な動きも結局、彼女への思いゆえかと感じれば、それすら説明に堕してしまう。おそそらく具体と抽象のバランスが前者に傾いて見えてしまうところが、この作品を男女にありがちな揺らぎと傷つけあいにしてしまうのだ。
 
 今回の舞台デザインの特徴は電球ーーー毎回、思いもよらぬ仕掛けで想像力を掻き立ててくれるのだが、不思議だったのは椅子下の明りくらいで、さほどの驚きをもたらさない。最終シーンに佐東が寝そべり、顔前に花のように咲く明りの群れは美しく、男女のすれ違い、別れ、慟哭があっても女性は再び冷えた花を見出すという、勅使川原のロマンチシズムとも皮肉あるいは畏れとも受け取れる部分は確かに総括としての人間観を見た気がした。
 
 それにしても毎回思うことだが、佐東の肌色のシャツとパンツの姿は彼女のダンスの魅力を半減させる。衣裳や肉体の線にこだわらない勅使川原の考えからだろうが、照明の中では肌色がいわゆるババシャツのらくだ色に見え、シャツとパンツが重なる腹から腰にかけては大きな皺が横線として入るので、色が色だけにそれが彼女の皮膚のたるみに見えるのだ。あの超スピードのダンスでは、線より動きが主眼であるのはわからなくはないが、エンターテインメントとしての快感は大いに減じてしまう。
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by nihon_buyou | 2010-05-22 08:15

5.21

 友人の舞踊家の「三社祭」の稽古を頼まれ拝見して来ました。
 二人とも一回半ほど踊っただけでしたが、着物を汗でぶち抜いていました。ふと大学生の私が亡父と初演したときのことや、今の海老蔵さん(新之助時代)に振り移しながら何十回と一緒に踊ったことなどを懐かしく思い出していました。

 夕方、有楽町で慶応大学経済学部のゼミOBたちの集う会で「しぐさ」についての短い講演をさせていただきました。文化学院の立花利根先生のご紹介で、その御主人らが中心になっている50年も続いた集まりでした。
 皆さん70歳を過ぎた大先輩がたで、帰りにも参加者の方から最高に面白かったと声をかけて戴きましたが、自分としてはもう一つまとめがうまくいかなかった反省をしました。

 雨の中、古宮さんと会い、一時間ほど飲みながら来年の企画の話。

 6月中旬に発行予定の季刊誌の準備を並行してやっています。
 公演のためのマネージャーも心づもりしていた人が別の仕事に就くようで、新たにさがさなければなりません。
 振り付けをし、演出をし、プロデューサーをし、今回は出演もするーーそこに稽古やら原稿やら日常の作業が入ります。もうそんな事は出来ませんし、やってはすべてが軽薄なものになるでしょう。助けてくれる人を急募しなければ…
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by nihon_buyou | 2010-05-21 05:08

5.20

 前進座の「切られお富」を拝見。この座の財産演目で、うまくまとまっているので作品として充分に楽しめる。
 第二幕からの国太郎が先代を彷彿とさせるし、任にはまっていい。ただし、安蔵を追っての花道の引っ込みでの、首を中心にした体の使いはぎこちないナンバンになっているのがいけない。首・肩・腰がずれて連動すべきで、一緒だとああなる。

 全体に前進座の格優はセリフに比べて身体訓練が行き届いていないように見受けられる。型の選びかたで言えば、だんまりで三人が並んでの引きあう蛇籠で、三人ともの足が束立ちになるが、これでは引く力が手だけになり、行くー引くー踏みとどまるというエネルギーの均衡が頂点の見得になるという美に結実しなくなる。この三役だから足が割れないというなら、蛇籠をやめて天地上下、シンメで決めないといけない。
 立ち回りに引き見得も首を逆方向に曲げるという意識でなく、斬って前に出た上半身とエネルギーを手前に引き寄せるのでないと只の形に堕ちてしまうし、その形すら悪い。
 赤間屋の手代三人が初めからやさぐれているのも気になる。前垂れをした行儀のいい人物や店が突然盗賊一家に変じてこそ面白いのだ。そのためには、体を殺して(脇は開けない、膝は開かない、上半身はやや前屈)生活感を出すようにするといい。感覚は最悪90%技術でなんとかなる。なったつもりはいけない。

 国太郎が帯を解かれるシーンが二度あるが、前向きで観客に見える位置で帯上げを二度とも解くのはとても気になる。このあたりの段取り芝居をしないのが前進座の良さの一つで(とても些細なことながら)そんなことにまで神経が行き届いていたからこそ、前進座の歌舞伎は新しい演劇群以上に血が通い、緊張感みなぎる舞台を創造していたはずだ。
 例えば、矢之輔の安蔵がお富に切られて髪をさばくシーンなどは段取りがうまく隠されているので迫真になり、観客のショック度も大きい。

 敢えてしぐさ面だけを取り上げて意見を言ったが、以前は役作りやせりふ回しにもいわゆる松竹歌舞伎とは違った心やテイストがあった。が、それが似て来てしまったのには、継承したり守る意識が先頭に立ってきてしまったからだろう。
 今回、嵐広成が七代目芳三郎を襲名し、井筒屋与三郎を演じている。きっちりと行儀よく演じているので好感度は充分あるのだが、残念なことに彼の持ち前の一途さが生かされず、類型的な二枚目若侍になってしまった。立ち回りも型が破れないことだけが念頭にあるようでこの役に内在している表と裏の両道を平気な顔して渡れる新人類的あっけらかんとした、いいとこの坊ちゃんぶりが出ない。与三郎の持つ、場末に息する人々とは異なる一途と自分主義。この価値観の異相がこの芝居に出てくる人々の人生を何もしないうちに変えてしまうのでなければならない。その意味では、単なる江戸和事の演技で処理してはただの類型になる。前述の蛇籠でポンと脚を割って白井権八のごとく見得をするくらいの精神的冒険が出来てこその伝統は揺れるのである。間違ってならないのは伝統は固まることでなく、絶えず揺らいでこそ息づくのだ。新・芳三郎のキャラクターはそれが出来る人物とかねがね期待している。
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by nihon_buyou | 2010-05-20 14:29