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役者馬鹿なんてもういらない

 この一年、毎朝の日課のようにおどりの空間のホームページを見、ブログを見、そして自分のブログを書いてきました。
 たった一年ですが、その中で起きた出来事や人の心や考え方の変化が続けることでよく見えてきますね。

 書き続けることを自分に課した私は、珍しく初志貫徹に近い成果を挙げられました。今までは何をやらせても中途半端だったり、三日坊主だったり…そんな自分にほとほと飽きれることが毎度でしたが、今回は小さな自信が持てたかもしれません。

 春ですからいろんな催しの招待状が舞い込みます。うまく日程が合うものはいいのですが、どうにも身動きが取れず歯がみするものがあります。
 この処、特に当方の関連する仕事の為に大好きな人のバレエに限って見れないことが続き、ホントに残念でなりません。森下洋子さんの「新・白鳥の湖」が見られなかった時は、お風呂につかりながらその音楽CDを聴き、舞台を思い出しては涙している自分にまたまた呆れてしまうほどでした。

 いま、周囲がうねるように変化し始めています。が、意外とその中心にいる人が呑気で気がつかなかったり、自己保身で言い訳や不満、愚痴をまわりに漏らして正当化を図ったりと…つまらないことですね。淋しいことですね。悲しいことですね。
 
 周囲が変化を決意し実行したり何かを言いだすまでには、相当の気づかいや時間を要しているものです。少なくとも私の場合は、いきなりではなく、小さく、中くらいにと言ったように折に触れ相手に知らせていきます。もしもこれがクレームやダメだしならイエローカードを最低でも三枚は出してのレッドカードです。

 昨日もとある関係者からある人の仕事ぶりを聞きましたが、私も数年にわたりその人物を何度も救ってきましたが、取るに足らないプライドと知性や心を磨く訓練をしていないことで関係筋にレッドカードを出したばかりの人でした。
 今回は寛大な心の持ち主がなんとか説得したようですが、おそらく近い将来、業界での仕事はできなくなるでしょう。

 そんな人物を何人も知っていますが、特に芸界でその手の人が多いのは、芸をする人が感覚や感情ばかりに頼りすぎるからに他なりません。また役者馬鹿こそ役者のあるべき姿だと喧伝する、それこそ大馬鹿者が闊歩できる世界でもあるからです。
ほんとの意味で馬鹿になるというのは覚悟でもあります。馬鹿ならいっぱしの芸談や理屈を言うのはいけませんよねえ。

 単純に言って馬鹿になんかなれませんし、なりようがないのです。道教の隠者にでもなるしかないくらいです。それなら、心も知性も磨くしかない!なぜなら、完全なる磨きは永遠になく、その人それぞれの磨きの段階がその時その時にあるからです。
これを放棄すればただどんよりと曇るだけです。心に何も映らなくなれば、芸能者はおしまいですね。

 感覚自体を磨くことはできません!感覚を磨こうと思うのはただ感情的に生きようと錯覚しがちです。感覚は赤子の時が一番なのです。これが年を経るに従い、誰もが曇っていくのです。

 では、それを何で磨くか、という処にそれぞれの問いと行動があるのです。何かによって磨かれてこそ優れて輝く感覚、感性ですね。若い時の多感のままを装うのは偽物に過ぎません。もう肉体も経験も、第一、時間が違ってきています。

 若いころ、あんなに一日が長かったのに…それはもう取り戻せない時間感覚ですよね。それを懐かしんで終わる一日も一日ですが、短く感じたり早く感じるからこそ愛おしく思えるものがあるわけですね。これが若い時にはわからなかった。だから、なんでも捨てられる気になったもんです。

 もうつまらないプライドや見栄の虜から早く脱け出ましょう。たいしたことない自分ですもの。これからたいした自分になればいいだけですもの。
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by nihon_buyou | 2010-03-31 10:48

稽古の合間にふらっと

 花冷えー今日は四時に起きていろいろ最近の予定の見直しなど。

 昨日は空間の荷物収納のための倉庫下見。事務所にもできそうな場所なので効率のいい使い方など考えたいと思う。

 赤羽稽古場はいま会の合間でみなそれぞれの型直し。若い連中はみどり会の群舞の稽古に入ったようで、三階から笑い声が響いている。とにかく苦しい悩みも楽しくなるのが踊りの稽古でありたい。

 いつも旅は思いつきだが、今回はわりと出足が慎重というか、エンジンのかかりにためらいがある。ワクワクする内的な興奮がもう一つやって来ないのだ。「唐招提寺」の本が開かれないまま机の上にある。昨日から「天孫降臨の夢」を読み始めたら、やはり聖徳太子不在説に行きあった。歴史教科書が縄文・弥生からいきなり飛鳥・天平時代へ飛ぶ不自然。記紀の作為など含めて、私が気にしている不比等が道成寺や珠取に関わることとのつながりなどーーー闇が深くなってきている感。
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by nihon_buyou | 2010-03-30 06:36

3.28

 上野文化会館でバレエ協会の「ジゼル」やはりジゼルが急に狂気になり、挙句の果てには死に至る過程が唐突であるのは免れない。みなみな技術は水準であるが、作品の穴を埋め合わせる飛躍がないのが残念。

 能「宝生別会」ーー地謡の小音がいつもながら気になる。「高砂」の神舞からキリに移行するのにあまりにテンポがゆるくなりすぎて、祝儀的言葉の高揚感が響いてこない。「求塚」でシテが一人残り、扇で前をさして進んだ時、周囲の景色が消え去るような感覚になる。その直後、ツレ3人が退場しシテ1人が残ったが、こういう効果をねらったものだったのかと初めて体感した。

 帰りに三省堂で本を数冊買い込む。「日本と道教文化(坂出祥伸)」「魂の古代学(上野誠)」「日本力(松岡正剛+エバレット・ブラウン)」「「3」の発想(芳沢光雄)」「天孫降臨の夢ー藤原不比等のプロジェクト(大山誠一)」「お岩ー小山内薫怪談集」「四谷怪談地誌(塩見鮮一郎)」
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by nihon_buyou | 2010-03-29 00:12

3.27

 昨日は打ち合わせをしている間に講習会は始まり、おおぜいの皆さんにご来場。数人の新しい方の参加もある中、紫葉さんはなんと40年ぶり、劇団でともに学んだ人との劇的再会?もあったようです。詳しくは空間ブログへー
http://blog.livedoor.jp/odorinokuukan/

 このところ、打ち合わせ続きですが、そんな中で自分とは異なる世界の人々のお話が聞けるのでさまざまな勉強ができます。
 昨日もホームページ関係の話を伺って、今まで漠然と疑問に思っていたことなど理解、納得でした。

 今日は原稿、午後から打ち合わせに夜はバレーです。またまた楽しい一日なり。
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by nihon_buyou | 2010-03-27 08:40

3.26

 今日は空間の新舞踊講習会。それ以前にホームページのリニューアルの打ち合わせ。

 この処、身に降りかかる火の粉が多く(笑)払うことを随分覚えさせてもらいました。
 以前は他者からこうむった災いで、結構怪我ややけどを負っていました。今思えば、あの時この身につけた技があったなら周囲にぐうの音も上げさせなかったのにと、悔やまれなくもないのですが、自分の身も顧みず他人の為にと考えたこと共も、まあようやく自分の事していいよのサインかと理解しています。さあ、持ち前の我儘発揮するぞお~(あれっ?今までは我儘ではなかったみたいですって?まあ、そう思うあなたと比べればの相対評価ですー笑)

 最近見たものーーー
 「マクベス」野村萬齎の演出。マクベスと夫人ンの他は最小人数の3人で次々と役を変わっていくのが効果的。松井るみの装置がドームの半球めいて、それが館でもあり世界でもあり大脳の比喩に見えるのが面白い。ただ王冠もその流れのものを使うがこれがオウム真理教のヘッドギアのようで安手に見える。ついでに衣裳も白や黒のブラウスやセーターの上に袖無のような(能なら側次)ベスト状のものや、ショールめいたもので役や状況を変化させるが、アイデア倒れの感があって、スタイリッシュというより、女の子趣味の着せ替えのようで時代の格が出ず予算が透けて見えるような感があるのがもったいない。「きれいはきたない」をキーワードにして、土星の環式の回り舞台の使用や、人物の出入りの工夫が凝らされていた。台本の翻訳で「女の股から生まれたもの」を「女から生まれたもの」と露骨さを消してしまったために、終局でマクダフが「帝王切開で生まれた」としなければならない所を「死んだ女の腹から生まれた」と別の訳をしなければならなかった点、現代ではもうひと工夫しないといけない。

 能「巻絹」金剛永謹。天神が降りた巫女としてこの人が登場すると、従来の巫女の清楚さや憑き物めいた神経質な作りでなく、体躯の大きさも相まって古怪な神を確信させるようだった。神楽の途中、頭を垂れ体を前屈する動作にも、神がかりでありながら参拝するのかという疑問を越えて、神が巫女の体の中で胎動しているような感覚。御幣を後ろに投げて神が離れて以降も大きな変化はないが、悠揚たる時間が流れて、神経質になっている現代の能とは異なる面影が宿ったようだった。

 映画「ドラえもん」30周年記念とて、家族イベントで大人7人で出向く。人魚伝説をテーマにしたもの。架空水と実際にはない水の中でも魚らが生きられるガスをドラえもんの道具として使用する。この仕掛けが理論的であることが却って説明的で面白味がない。もっと仕掛けは単純で穴があるほうがいい。完璧であろうとするとイメージで補う部分が失せてしまうからだ。例えばタケコプターを頭に付け空を飛ぶ場合、頭皮にかかる重力負荷をいかに軽減してあるかなどを説明したり、ドコデモドアーの空間ワープに必要であるワームホールなどを語りだしたらきりがない。今回の架空水とガスは物語の点描で出てくる分には一向差し支えなかったが、クライマックスにこの理論を理解できないと解決への共感の高見にもう一つ上がれない感があるのがつらいのだ。いわゆる夢の道具は理論を超えたイメージの中にあるのがドラえもんの価値である。卵から不思議な動物を生むことができたり、パソコンの中から登場人物が自由に現実世界に出入りできてこそイメージの中での完成感だ。作品は観客の心の中で完成すればいいのだ。
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by nihon_buyou | 2010-03-26 11:00

3.23

 自分の気分や気持ちを大切にする人が多いですね。またそれが当然と考える風潮でもあります。
 が、そのために淋しかったり、思うように事が運ばなくなるという事実には気がつかないようです。

「気分」は気が分かれると書きますし、「気持」は気の持ち方なんですね。ところが、往々にして人はその日その時の感情を指してこう思いがちです。しかも自然に宿した感情に従うのが正しいとすら思っています。
 が、感情は人生経験や知識によって同じ個人でも変わるものです。よく「ああ、こんなことだったのか」と感情の虜になってアンニュイになっていた時間を悔やむことがよくありますね。この多くは一人合点の理屈で自分に固執している時が多いものです。

 まあそれでも取り返しのつくうちはまだしも、気がついた時には、の事態になってからはたいへん。取りあえず感情はコントロール、行動もコントロール。感情にひたって様になる年齢は私の場合、30年も前に過ぎました。

 しかし、自分はいつまでも若い気でいるものですね。先日の会の後、スタッフの人に誘われ数人で飲んでいたら、隣席の若者と前の席の人が私と同じ干支だとわかり喜んだのですが、隣は二周り下、前席は一周り下と思いきや、なんとそれぞれに一周りを足さなければならなかったので愕然としました。
 私としてはそれまでもほとんど年の差を感じずお付き合いをしているつもりでいたのが、初めてこの場での最年長が自分だったことに今更ながら驚いたのです。
 今まではどこでも自分がいつも一番年下だと思っていた嬉しい記憶ばかりを頼りにしていたのが、かすかな風が通り抜けたような気がしました。

 これから何をなすべきか…思いのままの自然体で生きるというのは標語としてはカッコイイですが、あきらめ気分の落とし所になりがちです。枯れ葉が落ち放題の露地ではなく、綺麗に掃いた後に葉が数葉散らしてこそ自然のよさを感じられるように、野放図な自然は人にとって迷惑か脅威になるだけです。
 自然は演出するものーーー感じる力の他に経験、知性も磨かねばなりませんね。ふうむ…
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by nihon_buyou | 2010-03-23 11:35

3.22

 この処、身の回りではいろいろな出来事が頻発しています。
 直接には関係ないのですが、それぞれに微妙に関わっているのでそれぞれが心配でいます。

 例えば、ある会社では代表が入院。社員や参加している人々がやめることが同時に。
 ある企画では、もともとのプランナーを無視して、別の筋から話を進めただけでも筋違いのお咎めなのに、さらにはもとのプランナーの業者だけはちゃっかり安く使うというとぼけた小狡さ。
 知り合いの店はなかなかいい店なのに不況もあってか営業見直しか?もう一軒は店は好調だが、背負った問題が大きく押しつぶされんばかりに悩まされ…
 またある人はわずかな公金の着服疑惑を噂されたり…
 その他、身に降りかかった小事でももう一つすっきりしない事が多いこのごろです。

 やはり人心の不安定が招く諸現象で、いま一つ一つを見ればよくある出来事に見えますが、例えば私一人の周囲にここにも書かない、書けない事件も含めると山ほどな不穏が重なるというのはメッセージに他ならないのですね。

 そんな時こそ自分をしっかり保たねばなりません。それは当然ながらガンコになったり、意固地になることではありません。
 心を開いてすべてを素直に受け入れられるかどうかー

 自分に固執すればするほど、風は強く吹く道理です。風に吹き飛ばされまいと心や体を堅くすれば抵抗はいや増しに感じられるものです。

 こんな時こそ明るくふるまいます。先日の大嵐の夜、子供が不安で泣いたら部屋の電気をつけたはずです。暗闇はよけいに人の心を萎縮させますから、行動が鈍くなりますね。
 実際にはこれとまったく同じなんです。明るくふるまうなんて、馬鹿げて短絡な結論に見えますが、結局これに尽きていますよね。自分の失敗や思い通りにいかない理由を他人のせいにするのは簡単ですが、明りを点じてよくよく見れば、恐怖心はおのれの中から湧いて来るもので、嵐が運んできたものではありません。実際には気にせず寝入った人が多かったはずです。
 恐がるのは経験、知識のない子供だけです。とすれば、私たちの恐怖や愚痴、他者のせいにするという感情は経験、知識がないゆえとも言えるのです。

 中村天風が言いました。人をもっとも消極的にするのは恐怖心だと…しかも、その恐怖の根源は、自分の愚かさを見ることに尽きるかもしれません。
 自分が偉いと思ったり、こんなにやっているのにと愚痴る心が起きた途端、心に鎧が出来てしまうものですね。

 私もこの鎧をなんども着ては失敗を繰り返しました。その失敗をまた繰り返そうとする自分がいないわけではありません。
 しかし、どんなに美しいと思う鎧でも、他者から見れば錆びていたり、紐がほつれていたりするものです。鎧は脱いで、人間独自の柔軟できめ細かい肌で外に接すればいいだけ。

 ふとそんな決心ができた時、私は用の為ではなく、心が外へと出発しているのを感じました。

 すべての知り合い、友人らに幸せの訪れを!そして私がそれを運ぶ喜びを!
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by nihon_buyou | 2010-03-22 10:17

3.20

 昨日は一日不愉快な気分で過ごしました。自分では勝手だと気付かない人々の、取るに足らない些細な言葉や行動がすべて思い出されて一気に私に押し寄せてきたからです。

 こんな時はどうすればいいかを心得ているつもりですので、午前中の稽古を除いてほぼ一日、なるべく知り合いと接しない場所で過ごしました。それらが思い出されるような相手からのさまざまな御誘いも当然お断りさせていただきました。

 こうしていわば精神のお籠りを経験し夜寝たら治ると暗示をかけたので、今朝はちょいと夜更けのビールと食べ過ぎが残った程度の後遺症で復活を遂げました!
 よくこんなバカな気分を何日も続ける物持ちのいい人がいますが、私の感情ははそれほど立派でもありませんし、周囲を何日も自分の不愉快に巻き込めるほど偉い人間ではないので一日限定と自分に言い聞かせてお籠りします(笑)

 このブログもどのくらいの人々が読んで下さっているか、見当もつきません。よく思わぬ人から読んでいる聞いて有難いやら感謝やらの思いを懐くのです…
 が、若い人にとってはアクセス数の多少が気になるようで、そんな話を柳谷さんとしたら「みなさん、ブログなどの効果とか目的とかが今一分かっていないのでしょう。例えば、ブログを三回かく書くと、お客様が一人増えるとか、セールスマンが十人会えば、品物が三つ売れるみたいな。効果を実感するのは難しい。さらに、そういうことがわからないことが、正しいみたいな雰囲気がまだ残っている世界ですし、繰り返ししかないでしょう。」との意見。
 私は自分が出す本を書く時とは違って、ほぼリアルタイムな読者がいると想定して、いま自分の考えていることをどう書くか、あるいはモノ申すかの訓練をさせてもらっているのです。
 だからアクセス数やコメントの多少も気になりませんし、あるいはそれで切符が売れたかとか、弟子が増えるかどうかなんて全く対象外の行為です。

 人それぞれに目的が異なりますから、もちろんHPやブログに大いなる宣伝効果を担わせているものが多いことは当然です。
 ただ私がテーマにしたことは毎日の自分への宿題と、「芸能の民」がいま何をなすべきかの問いに他なりません。

 このブログの背中では私のホームページとおどりの空間のHPおよびブログが公開されていますが、それがほとんど機能していない状態なので、これを改良しようという案や動きがこのところ周囲で起きています。
 いわば外注の形ですが、それはそれとして、なぜここにいる人間の中からそういった動きが今まで起きず、まるで他人事のようになってしまったのかが不可解です。

 まあ、それも言い出したらきりがなく、このブログの禁忌にも抵触しそうですし、昨日のアンニュイの直接原因とも誤解されそうなので(笑)やめておきます。

 それはともあれ、時代は動いています。それを漫然と見ている鑑賞者である前に芸能者は方向づけと時に批判者になる覚悟でなければなりません。
 
 時代の波に乗っているつもりでサーフィンを楽しんでも、実は海の仕切り屋さんの縄張りで泳がせてもらっているだけだと気付くくらいの気概がなければ芸能はできないのです。
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by nihon_buyou | 2010-03-20 11:00

3.18

「役者はわがままだ」とは、この処、私の身の回りでしょっちゅう飛び交っている言葉です。もちろん役者みんながわがままといういうわけでは断じてありません。特に優れた役者になるに従い、周りの人々にたいへんな気づかいをして、ご自身は謙虚でいるものです。

 ある意味、役者や舞踊家など舞台で表現する人はおおいにとんがっていなければならないし、またそのくらいの人でないと舞台もつまらないものです。
しかし、自分に溜めをきかせられない人の演技は見ていていぎたないものですし、また主役は周囲に立てられての主役だという心のない人の演技には輝きがないものです。

 ある役者はダメだしが出たり、自分の意見が通らないと不機嫌になり口もきかなくなることがしばしば(笑)
 舞踊家は師匠や先輩らによって、自分の意見を言わないほうがうまく処世できると教わっているので沈黙を守り、時に自分の中に溜めこんだ毒ガスで中毒を引き起こします(立ち入り禁止区域に指定)

 こんなことは舞台表現者ばかりでなく、どの職業、どんな場や時にもあるのですが、いわゆる「隣の庭は赤く、きれい」に見えたりして、自分の庭を否定するのは世間を知らない悲しさでもありますね。

 日本舞踊は筋肉運動ではありません。準備運動もしないでいきなり踊り出すのはどうかと考えるのはいささか西洋ダンス寄りの考えですね。
 特にその実証ともいえる現象に年齢を重ねた演者ほど、いい日舞を踊るという現実があります。60、70歳を越えても現役というダンス概念からは異常な事態が起きるのもそれゆえです。

 要するに肉体運動である以前に日舞は「詩」であるということです。言葉に対する感覚や人生経験、生きざまが多層なイメージを惹きだすジャンルだからなのです。
 他のダンスと日舞が決定的に異なるのは「言葉」を踊ることです。歌詞に即して月なら月を両手で丸く描いた時に、その言葉に対する感性や経験の違いや出会った事件、懐いた思いの深さが見る人々の無意識に働きかけてイメージを呼び覚ますものなのです。
 だから言葉に対する感覚や経験が重要で、特に体を酷使するような必要はある年齢や鍛錬を経た後はなくなっているのです。(ここで誤解してならないのは、ある年齢や鍛錬を経たのちは、と断っていることですがー笑)

 その意味で言えば自分の日舞がよりよくなる為には、さまざまな事件に遭遇することでしょうか。こんな皮肉が言いたくなるほど、日舞は見当違いの方向をさまよい悩んでいます。迷路は必ず抜けられます。ただ自分が今まで間違い続けてきた性向は捨てないといけません。方向音痴の私がいつもホテルのドアを出ると右へ何故か曲がりたがり、挙句の果てに迷子になるクセを知っているように、自分の性向を知ればあとは簡単です。迷路に入ったら自分のナビは当てにしないことも一つの方法です。
 日舞家よ、迷うなかれ。迷ったら、私がナビしましょう。いま日舞にとって大切なのは、自分の日舞界の中だけの出世でもお金でも肉体でもありません。いまをどう日舞で生きるかという生きざまと、いまの世界だからこそ日舞が必要だという強い信念に他ならないのです!
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by nihon_buyou | 2010-03-18 11:53

3,16

 熱い毎日、いろいろメールやら口頭やらで相手に合わせながら語り続けています。
 周囲の人にはそれがなんの意味をなすのか、またなんの根拠や見込みがあるのかは曖昧模糊として掴めないかもしれません。
 私のほうも心や頭脳の裡に湧いてくる思いや言葉を語らされているだけで、含みに聞こえるのも自分でもよくはわからないけどおそらく何かの種くらいにはなるだろうといった感じです。

 が、不思議なものでちょうどそこに居合わす人、また何故かはずれる人がいて、それがいままでの人生時間と奇妙に重なって見えるから不思議です。例えば運のいい人はたまたまそこに居合わすような…

 この処、稽古場では「夢」という小曲が大流行で、なにかと稽古する曲につまるとこれになります。どちらかといえば、人生の無常をペシミズムで捉えたもので、人生は泡沫の夢と比喩しています。
 これにもう一つ「花」という小曲があり、これを花→夢の順で踊るのがこれまでの通例でしたが、私は敢えて逆にしています。泡沫のような世の中だからこそ、花を謳歌しようというのが私が曲順を変えた小さなメッセージです。稽古場でできる小さなことにすぎません。

 踊りや歌舞伎はいつも時代を、旬を語っていました。近松があっと言う間に心中事件を舞台に乗せたように、また南北が時代のアンニュイな空気を身に帯びして怪談を書き続けたように…
 現代ではこれらはすでに古典となりました。いわば冷凍保存された時代の息吹を、好みに合わせ解凍して食膳で楽しんでいるわけです。
 生の刺身は踊りや歌舞伎では食べられないのが現状です。たまたま話題になった舞台も演出を今風に変えただけで、時代に即応したものではありませんし、またその程度のものが安全で良いわけですね。

 しかし時代は戦争こそ日本では起きていないものの、この大不況や異常気象は第二の戦争に他ならないのです。この時、なにを準備しなにをし、何をなすべきかを考えるのが私たち芸能に携わる人のこの世での役割に他なりません。

 人生夢だと詠嘆してすます時代は過ぎました。なにもない荒涼とした精神風景に、いま必要なのは花の種や苗木です。一つ一つ植えていくこと。自分の小さな悩みにひたっている時間はなくなりました。武器を持てない、持たない私たちがいま起きている現象に扇一本で守るもの、育てるもの、変えていくもの…
 いま、私の中で動いているもの。近々に誕生の産声をお聞かせすることになるでしょう。
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by nihon_buyou | 2010-03-16 10:08