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ろうそく能ふたたび

 昨日は今井清隆のろうそく能で「黒塚」を見ました。今月二度目のろうそく能です。
といっても、この舞台はシーリングを舞台に多少あてていたことと、さすがに金剛流独特の動きの大きさ、切れ味、さらに本人の芸に力があるので薄闇が苦にならないどころか、却って効果を挙げた部分もかなりありました。

 だからといって、始めに決めた明りで最後までやりきろうとするろうそく能、いや能の行き方には反対です。能はフラットな明りであるべきという一辺倒な考えは如何かと思います。
 特にろうそく能まで企画することは、明りによって舞台がどう見えるか、見せたいかを場づくり、雰囲気づくり、話題づくりだけで終わらせてはいけません。
 
 舞台を企画するという行為は一つの作為です。現行の舞台のように芸だけで勝負するなら、ろうそくの光で舞台を構成する必要はありません。
 いまさら「陰翳礼讃」を引くまでもありませんが、障子、欄間などに差し込む光やそれによって生じた影の偶然、自然が見せる恐ろしいまでの移ろい…
 それをすべて巧まぬ自然の所為と評価するのはあまりに乱暴です。そこには障子の紙や桟といった用意された仕掛けがあって、それに偶々自然が働きかけるから季節や日、時間によってその瞬間でなければ味わえない奇蹟を生じるわけです。

 働きかける時間、日差しの変化といった自然の魔術は前もって期待計算されているーーーこれが「作物」なのです。その意味で、ろうそく能には始めに作為ははあっても終わりにはそれがない。人の目が薄闇に慣れることだけに依存していますが、それには限界があるのです。

 確かに今井の昨日の芸なら暗さがまあ気にならなくはなりましたし、それを忘れさせてはくれました。が、面などは最後までわかりませんでしたし、もっとはっきりとこの目で見て感動したい芸も彼方で蠢いてはいた気がします。薄闇でも芸を感じさせた今井の芸はたいしたものですが、はっきり見たとは断言できませんし、見たかったという悔いだけが残ったのは事実です。

 以前にも書きましたが、ろうそく能で自分の五感に驚き、異様な緊張と体験を楽しんでいられるのは、始まってせいぜい30分止まりです。これから先はろうそくだけに責任を押し付けてはいけません。あくまでも舞台は作物なのであって、偶然起こる自然現象とは異なるのです。だから、作物としての明りのマジックを30分後からは加えてやらなければただのレアな見世物になってしまいます。

それでもどうしても蝋燭光だけで終始したいというなら、どんどんそれを増やして最後は舞台一面を蝋燭で埋め尽くすのが面白いでしょう。
by nihon_buyou | 2009-10-25 07:42 | 伝統芸能・日本舞踊・能狂言
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