人気ブログランキング | 話題のタグを見る

10.24

 竜小太郎さんとの対談は、あちらのファンの方々が温かく見守って下さり、トントンと話がはずんで、いい催しになったかとおもいます。 

 その後、門前仲町にある寿司屋の居抜き買い取りやその他の相談でその店へ。古宮、楽千代、井上氏らといろいろな企画の話も進み、料理もそれなりに美味しくいただき、さてお勘定の段となったら、我々全員の予想を裏切り2倍!皆々不快な思いで帰路で、あれだからお客さんが誰も入らないということを納得したものでした。
 私の近所にあった寿司屋さんも、父親の死後、息子の代になり、あまり美味しくはなかったのですが縁を感じ通う中で、いろいろ意見を言いましたが頑固で聴く耳持たずとうとう潰れました。そこも値段がまず明朗でない点に尽きます。昔からの寿司屋計算がいけないというのではありません。せっかく若い店主に代替わりしたのに相変わらずの不入りだったので、値段を表示してみてはどうかのサジェッションに頑として聴く耳持たず、ネタの仕入れも築地から定期的に届けてもらう前からのやり方でなく、自分の足と目で確かめてみる、いわば企業努力をしようとしなかったのです。

 日本舞踊も人生も同じです。いま自分がやっている方法や生き方、考え方の傾向などには誰しも理由や体験があってそうなっているのは当然ですね。
しかし、それでうまくいかなかったり、先へどうしても進めない場合にはそれらの習慣になんらかの問題があるわけです。
 純粋であればいいとか、善意であればというのは実は自分への甘やかしです。なぜならそこにもう一つ、発展したい自分がいる以上、純粋や善意の純度や質が低下していることを知らねばなりません。
 体制、大勢に与しないでやるというのは私の生き方の傾向ですが、それはカッコつけでは言えませんし覚悟であります。と、もう一方で別の人々には認められていく企業努力も実は必要になっているのです。口先のアウトローなら誰でもなれます。が、アウトローだけでは決して生きられないことを実感、自覚するアウトローこそ息永くやっていくコツなのではないでしょうか。

 「もののあはれ」とは悲観的なことではありません。悲しいことだけでなく、嬉しいことや恋のときめきなど人間のさまざまな事象に感を動かされることなのです。
だから、生きるということはダイナミズムなのであって、悲しむだけが「もののあはれ」ではありません。その意味では「諸行無常」も同じで、盛んなものが衰えることだけでなく、衰えたものも栄えてこそ、すべては移ろい動いていくということなのです。
 これらからもわかるように移り変わる中に人間や人生、社会の本質を見るのが日本の思想の重要な部分を占めています。

 変わらないことを決め込むのは一面カッコイイ美学のように見えますが、これは美学であって「美」そのものではないのです。
 美はいまここにあると思っても、次の瞬間移ろいます。私たちの感動すら同じものを見ても、二度目三度目は初回と違います。自分の生き方もまさにそれで、決めた瞬間、停滞が始まってしまうのです。
 その意味でも物差しを何本も、そして常に取り換えることを恐れないことが必要な気がします。
by nihon_buyou | 2009-10-24 12:38
<< ろうそく能ふたたび 10.23 >>