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前進座の「或る「小倉日記」伝」

 前進座の「或る「小倉日記」伝」は松本清張の同名の短編を劇化した作品です。
 森鴎外の小倉在住時代の散逸した日記の部分を、身体に不自由のある青年が脚で渉猟して行くのを、母の献身を底流に叔母や好意を寄せる看護婦、幼馴染の少女ら女性側の視点をちりばめてまとめ上げていました。
 
 その意味でも、この劇団ではふだんなかなか活躍しきれない女優陣の演技力が発揮されて、特に母役の北澤は特徴的な目鼻立ちの大きさ、個性的な風貌に日本の地母神を見るようで、限りなく美しく見えました。叔母役の浜名も厭味なく、きちんとそこらにいる「おばさん」としての存在感で、巧みない笑いを誘ってくれたのはたいしたものです。
 この二人が一時代前の日本の女性の善良さと庶民的愛嬌を醸し出して、前進座女優陣の底力を頼もしく感じさせてくれました。

 が、これはあくまでも演技面の収穫。やはり作品としては芝居としての感動には残念ながら程遠かったと言わざるをえません。いわば報われない仕事に命を捧げた青年のリアリズムは、清張のペンにして初めて文学的共鳴を惹起できたものですが、無為な現実を描いて演劇的感動にまで引き上げるには壮大な叙事詩にするか、メルヘン的要素に包み込むかの作業が必要だったと思います。
 その意味では柳生啓介が演じた青年も、登場からして過酷なまでの身体障害を背負っており、観客はすでにその時点でこの青年の悲惨な結末を予期してしまいますから、ドラマ展開としての意外性もなく、逆境を逆手にとったしたたかな生き方をするとか、悪条件を乗り越えての成就が叶うといったカタルシスもない。学界や社会の陰に忘れ去られていく小市民のともしびが予想通り消えて行くのを目撃しなければならない。それを結末に母一人の思い出に収斂してしまうのが作者の思い入れでもありましょうが、これでは社会劇にならず人情噺になってしまう。つらい所です。

 これは小説のリアリズムと演劇のそれとの質的相違によるもので、この劇団がよく掛ける歴史偉人伝ものにもこの傾向があります。偉人たちがやった事蹟の羅列ではなく、演劇的な部分や時間だけの抽出であればいいのです。編年体では演劇的にはなっても演劇そのものにはなりにくいでしょう。
 
 しかし、ともあれ女優陣の健在ぶりを讃えて報告記といたしましょう。
by nihon_buyou | 2009-10-11 11:23 | 伝統芸能・日本舞踊・能狂言
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