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バリア「アリー」の人間関係

 「とうが立つ」という言葉がある。食べごろを過ぎた野菜であったり、婚期を逸した年齢の人などに使うが、ある意味であまりの親しさからか、女性に可愛さゆかしさ、美しさをかなぐり捨てたような言動をされると、心の中でこの言葉をつぶやきたくなったりする。ちょうどこの逆で、女性が男性を貶めるときには「オジンくさい」と最近では言う。女性にとっては男性がいつも精悍清潔で、溌剌、かっこよくいてほしいと思うからだ。そう考えれば、世間の男族が、上記のような批難をしたくなる瞬間が女性に対してもあることは理解できる。
 
 「もう男だとか女だとか言ってなんかいられないよ」と開き直った時に人は得体の知れない惰性体に変じる。これは実は男女という面だけでなく、弟子師匠や友達、同僚、親子兄弟、夫婦にまで陥りやすい暗淵として存在するのだ。こういう臭気芬芬とした腐れ果てた沼に沈まないために、昔の知恵では「親しき仲にも礼儀あり」という格言で防波堤を築いた。が、現代は人と人との間に境を作ることを古いと非難し、バリアフリーを提唱する傾向がもっぱらだ。

 しかし、老人介護の現場でも、実はバリアフリーではなく「バリアアリー」が実践され始めている。なぜなら外出もせず、障害物もない場所で大切に介護された年輩者はいったん外出した時に怪我などすることがあまりに多いからでもある。このことは箱入り息子娘や無菌室で育てた子供がうまく社会や病気に適応できない姿でもみな十分に知っているはずだ。
 だから、「バリアアリー」では、施設の床などに敢えて障害物や段差などを設ける。そこの中でどう高齢者が適応する術を学び、また介護にあたる側もいかにフォローするかを実習するのだ。

 これ一つをとっても、私たちの人間関係に、ある種の境界は必要なのである。弟子師匠の間や夫婦の間に「礼儀」という智慧をはずそうとするのは、ただの得手勝手、我儘傲慢にすぎない。
 さらには女性が女性を放棄し、男性が男性を放棄した時にも実は人間的としての実存崩壊を容認する道に突入した意味になることを知らねばならない。
 人は他人という存在があるからこそ自分を意識できる。それゆえ、少しでも美しく見られたいと思う。それは外面の化粧のことばかりでなく、内面の鏡の研磨でもある。私たちは親しくなるにつれ、つい境界を忘れ、崩れた姿を平気でさらしがちになる。限りない境界の低さは情報の賜物だが、古くなった「親しき仲にも礼儀あり」の示す境界は人間の、いや自分自身、さらには個人の尊厳を守る唯一の道標ではなかったか…
 この格言の古さが鼻につくなら「バリアアリー」というイマ風の言葉でもいい。人にはそれぞれ越えられたくない境界があり、越えてはならない線がある。人と人にはどんなに限りなく近くに寄っても限りがある!それゆえ他人を愛しく思い、それゆえ自分を美しく高めようとするのだ。自分を磨くとは遠い人に対してではない。近景に対してである考えるほうが理に叶っているはずだ。なぜなら遠景はなんとかなっても近景はごまかしが効かないことでもわかる。
 近景でこそ人は本当の美しさを得る。だから親しさは無理矢理自分の理を通したり、美を認めさせる場ではなく、自分を知って磨くための手鏡なのだ。
by nihon_buyou | 2009-07-24 07:42 | その他
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